遅ればせながら・・
 昨年から今年前半の制作記
                
岸本 康

4GODのボロフスキー

庭に設置された「ルビー」と
ボロフスキー
 ジョナサン・ボロフスキーは、10年ほど前に日本の美術館で展覧会が開かれ、「ハンマーリング・マンのボロフスキー」というイメージが大変強かった。
 70年代のニューヨークで若くして成功し、美術の様々な可能性をやり尽くして来た作家は、アグレッシブで我がままだろうと思っていた。
 清水寺で制作の公開をやる事を聞いて、もしもできるならその光景をおさえておきたいなと思っていた。そんな思いが彼の神にも届いたのか、先方から話が舞い込んだ。プロジェクトは、新作のペインティング6点を、1週間かけて仕上げるというものだった。さらに、庭にもインスタレーションとして立体を置くという。
 毎日同じ様な情景が続くので、私は1週間の内、2、3日撮影すれば、十分な素材が得られるので、スケジュール的に問題ないと思っていた。しかし、彼が希望して来たのは、毎日撮ってほしいというリクエストだった。

 '97年の10月の京都は、例年に比べて暖かかった。打ち合わせのために、成就院へ行くと、そんな暖かさにも似た感じのボロフスキーがいた。このプロジェクトを見た誰しもが驚いた事だけれども、そこで見たこれから仕上げるべく用意された絵画は、それまでの彼の作品からは想像できないものだった。
 庭に設置された、立体作品のルビーの方は5年くらい前に制作された赤い透明アクリル板で作られた長辺が80センチくらいの大きなルビーの形で、中に船舶用のライトが入っていて、少し不規則に点滅する。庭にぽつりと設置されたルビーは、ボロフスキーの心臓として鼓動し、日本庭園として作り込まれた庭全体と呼応し、夕暮れには一際美しく輝いていた。

独特の雰囲気の中、制作は続けられた
 自らがオブジェで手を加えた庭を横目で見ながら、朝から夕方まで4GODと題されたアクリル画を描く。そして、もう一つ彼がアレンジしたのは会場の音だ。自分のスタジオで自作自演して制作したCDから、神秘的なボイスミュージックをエンドレスで流していた。
 観客は、そんな中で畳や縁側に座って、淡々と描くジョナサン・ボロフスキーを見る。
 公開前日の記者会見でも、質問は「随分変りましたが・・。」という様なものが多かったが、「人生いろいろあるよ。」と本人は笑っていた。「今このプロジェクトが何になるのかは分からないけれど、自分にとっては大変重要なものだということは分かっている。」という言葉が印象的だ。
 のどかな日和の寺の中で、神秘的な音楽を聞き、絵を描く人がキャンバスに向かい、少しづつ色面が塗られていく様を見ながら来客者は、ゆっくりと流れる時間を過ごす。
 秋の紅葉には早かったが、清水寺の舞台に向かう観光客でごった返す参道とは対照的な空間を作り出していた。かつてニューヨークで美術館の展示室に金網を張って、来館者にバスケットボールをやらせた作家が立ち寄った表現は、静寂が上に強烈であったかもしれない。

 少しずつ少しずつ進む制作風景は、2日程で撮影すべきアングルが出尽した。3日目に入っても、絵画は次々に完成してゆくが、制作自体には、まったく変化は無かった。しかしながら、漠然とではあるが彼が毎日撮ってほしいと言った意味合いが見えてきた。普段とは違う時間の流れを作って、その空間を共有するという中での、御互いの微妙な変化を、彼は映像で押さえてメモリーしておきたいと思っていたに違いない。例えば、同じ晴れでも昨日と今日の晴れとは、どこか違っている。風の強さや、訪れる人々の多い少ない等、それは日々、微妙に変化している彼の作ったインスタレーションから何かを感じて、作品へ繋げて行きたいという考えであったのだろう。

 彼は映像作品も手掛けているし、アート・ドキュメンタリーという分野にも理解があった。そういう意味でも作家のコンセプトに近い部分での希望には、できるだけ応えたいと思った。一日中付き合えない日もあったが、結局は一週間清水寺に通った。収録素材は7時間くらいになった。
 撮影した映像に関する著作権に関して、全て私が預かる事に快くサインをしてボロフスキーは帰って行った。
 とりあえずのダイジェスト版は制作して、彼の展覧会で公開したり、KYOTO ART TODAYにも収録したが、いずれあの空間が回想できるようなものを作ってみたいと思っている。今、思うと穏やかな空間だったのに印象が鮮明な、不思議な1週間だった。

ムッシュ! ティエリー・クンゼル

 ボロフスキーが帰って1週間すると、今度はフランスから秋の訪れを待っていた作家ティエリー・クンゼルがやって来た。今年の夏から開催されるフランス現代美術展「眼と精神」の展覧会の関連で、日本での制作に来た1人で、京都に11月から12月にかけて4週間滞在した。彼は映像インスタレーションの作家として、ジュ・ド・ポムで個展を開催し、フランスでは高い評価を得ていると聞いていた。私は彼の京都でのロケハンから撮影までの制作の手伝いをする事になっていた。
 来日前のやりとりで、クオリティーの高い高級なビデオ機材で素材を撮りたいとの打診があった。さらには、できればステディーカムやレールを使って撮る事も考えられるので、その時に使える様にオペレーターもとりあえず手配してほしいという、映画の撮影に近い機材の希望があり、その内容からだけでも、デリケートな映像を作るのでないかということが予想できた。
 しばらくして、担当のいわき市美術館の杉浦氏から、これまでの作品のテープが届いた。PALからNTSCに変換されていて画質が落ちていたVHSにもかかわらず、美しく繊細な映像だった。インスタレーションのための映像素材を見るだけでも、透き通る様なクオリティーの高さが感じられた。
 今回の彼の作品は、秋がテーマで、この秋を制作することによって、春夏秋冬が完成するという最後のひとつであり、山や森の紅葉が撮りたいというのが来日前の希望であった。
 また、来日には制作アシスタントとしてポンピドゥー・センターのニューメディア部門のコリーン・カステル氏も助手として来日した。
 私はロケハンから撮影までのコーディネイトから実際の撮影まで、全てを担当させて頂く事となりプロジェクトは始まった。

 ロケハンで先発通訳として奮闘したのが、衣川太一で、彼は映画カメラマンを目指し勉強中で、できればフランスで映画を学ぶためにフランス語も勉強している。通訳だけに留まらず、撮影で使う可能性のある特殊フィルターの調査や、紅葉の状況を調べたり、率先して大いに活躍した。日本の映画界がこういう人材を放っておくのは勿体無い。
 さて、紅葉の始まった京都でとにかく彼の希望する山や森へ行く事からロケハンは始まった。ティエリーは初来日だったので、山や森の紅葉を撮りたいということと、漠然としたイメージを頭の中に描いてやってきたのだが、勿論ヨーロッパのそれらとは、大きな違いがあった様だ。京都の山々は市内近辺には、紅葉が見られるが、彼の希望する山の中は植林が多く、原生林で美しい紅葉を見せる所は、狭かったり、観光化されていたりと、自然の美しさを表現するに相応しい所を改めて見つけ出すのは、至難の業であった。普段何気なく、美しいと思って見ている紅葉は、以外と人工的な作り物であったりすることを再確認せざるを得なかった。また、昨年の紅葉は美しい時期が短く、ピークの頃に雨が降って、まさかと思う程に季節が速く通り過ぎたのであった。

金閣寺での撮影風景
 イメージに合った山中の紅葉が見つからない事に見切りをつけて、彼は意外に気に入った神社仏閣の紅葉を作品に取り込むというプランに変更した。いくつかのお寺の庭が候補になり、撮影交渉をしながら、さらなる候補地を探し連日、気力の限りロケハンを行った。最初、彼の気に入っていた天龍寺は、目当てにしていたもみじが、雨で落ちてしまっていた。「もうこれ以上先送りできない」という判断とスタンバイしていた機材の日程から、とりあえず第一希望の真如堂での撮影となった。庭の1日の光の動きを撮りたいという、ちょっとわがままなリクエストにもお寺の方からは快く御協力を頂き、撮影は見事に彼の満足するものとなった。
 さらに、ティエリーは第二の候補として金閣寺内部から池と庭を撮影するプランを実現した。こちらは、残念ながら彼の本来の希望の最上階が金箔の塗り直しで閉鎖されていたため、一階からの撮影になったが、近い将来実現したいと大変意欲的に京都を後にした。
 そんな彼も参加する展覧会が間もなく群馬を皮切りに、いわき市、和歌山と巡回する。日本ではほとんど紹介されたことがなかったフランス人作家の作品がまとまった形で来るので興味深い。

 先日、パリ市美術館で開かれていた90年台に登場してきた作品を回顧するNuit blancheでも、ほとんど日本ではお目にかかれないものばかりであった。多くの作家が出品していたが、楽しかったのは、叫びのアート集団、HUUTAJAT。真面目にみんなで叫びの合唱団的にパフォーマンスするビデオが上映されていたが、指揮者が突然地面から出てきたてきたり、土砂降りの中、規則正しく指揮に合わせて叫び続けることは、やはり美しいなと思わせてしまう。さらに、御丁寧に視聴者にも参加できる様に、最後は叫びのカラオケも始まり、このマジなエンタテイメントには恐れ入った。
 また、本業が映画監督のAki Kaurismakiの毒気のある短編にも大変魅力を感じた。髪の毛となぜか靴の先がとんでもなく尖って長い人々のお話で、ありそうな映画のシーンが出てくるのだけれど別に意味はない。個性的なキャラクターで魅了する画面を作り出していた。これらの作品は、たまたま映像作品だったが、共通するのは言語を越えて言語的に語りかけてくる、そうミスタービーンにも共通するあの感覚があったように思え、何か、そういう感覚が新たな芸術シーンを予感させる気がした。

豪雨のLA

吉田文子氏とポール・シーメル氏
 展覧会として90年代の新風も興味深いが、1949〜1979の前衛を振り返るMOCAで開催された話題の"Out of Actions"も強烈なものがあった。2月のロサンジェルスはエルニーニョの影響で豪雨が続き、私が美術館に着いたその日も停電でインタビューが延期されてしまった。この展覧会のカタログの背表紙に自らの名前が入っているポール・シーメル氏は、大変エネルギッシュでマイクの録音レベルが振り切れるくらい声も大きくこれまた強烈であった。このインタビューは現在制作中の「田中敦子・もうひとつの具体」に収録している。延期になったインタビューは、様々なイベントと重なり、しかも雨で時間が押してしまった。あちこちを行ったり来たりするポール氏にコミニュケーションを取りながら、追いかけてくれたのは、ロス在住の吉田文子氏で、私の到着以前からいろいろなコミニュケーションを事前に取ってくれていて今回の収録は彼女のパーソナリティーによるところが大きい。

 彼女は人工衛星の設計をしている旦那さんとマリナ・デル・レイに住んでいるが、アート・ディーラーと通訳をしながら、UCLAにも通っている。長年のアメリカ生活にもかかわらず、美しい日本語を話し、誰にでも気持ちの良い対応は大変好感の持てる存在で、彼女のそんなキャラクターが今回の収録を奇跡的に実現させてくれたと思っている。勿論、ポール・シーメル氏にも忙しい時間を裂いて、雨に濡れながらも駆けつけ協力していただいた。インタビューがどうにか終わったと思ったら、直後に消防署の検査で全員表に出されてしまい、間一髪のところであった。

 展覧会は思っていたよりも規模が大きく、200名近い作家の作品が集められ、その作品数にも圧倒されるが、世界20カ国から作品を集めていて、会場には展覧のための区切られたブースがあるにも関わらず、それら作品の流れが国を越えて理解できると言う画期的なもので、新しい展開を予感させるものがあった。
 パフォーマンスに関しては、ドキュメンテーション資料としてフィルムやビデオを通路各所に配置されたモニターに、5本程度のビデオがレーザーディスクに編集してあり、バーコードで自分の見たいものを選び視聴できる様になっていた。
 オープニングは大雨にもかかわらず盛況で、夜9時を過ぎるとさらに夕食を済まして来る人たちであふれかえり、ごった返していた。日本の美術館でもこの時間帯にオープニングができないものだろうか。招待客はメンバーが中心で美術館を支える大衆の力を一番に感じる場面である。平日白昼の関係者の井戸端では、本来の意味合いは無い。また、今回の展覧会の特徴は、企業スポンサーを付けなかった事が挙げられる。なお、この"Out of Actions"は来年、東京都現代美術館に国際巡回する。全裸のモデルさんとコミニュケーションのある作品などは多分展示できないのではないだろうか。流石に随分問題を提起する作品が多かった。

暖かな?モントリオール

 3月はモントリオールの国際アートフィルム・フェスティバルに行った。今回は「森村泰昌・女優家の仕事」のフランス語字幕版で参加した。今年のカナダは暖かいと聞いていたが、着いた翌日からマイナス10度以下が続いて結局は、モントリオールらしい一週間だった。映画祭の方は、昨年ほどインパクトのある作品に出会えなかったが、ギルバート・アンド・ジョージやメイキング・ゲティー・センターの様な長めの割と真面目につくられた作品に良いものが多かった様に思う。
 モントリオールのこの映画祭に5回目というユーロ・スペースの清宮さんと「ベラスケスの小さな美術館/ラララ・ヒューマンステップス」の監督、プロデューサーとちょこっと飲みに行こうという事になり、「ちょこっと」は夜中2時までやっているフランス料理店のおかげで、どっぷりになったが、アート・ドキュメンタリーを作って発信している積極的な活動を知り、大変貴重なものとなった。

 モントリオールに滞在して感じる事は、彼ら映画祭関係者だけでなく、またそれを見に来る人や、勿論まったく関係ない人までもが暖かく接してくれる。初めて行った時は、その歓待に驚いた。多分、日本人なら誰でも驚くのではないだろうか。
 あなたはゲストだからと何回食事やお酒を御馳走になったか分からない。普段、忙しさのあまりに、見ず知らずの他人とのコミニュケーションを遮断しがちの私は、大変感銘を受けた。
 そんな彼らの期待に応えるためにも、良い作品を作り、また参加したいと思うのは私だけではないはずだ。こんな、コミニュケーションがモントリオールの新しい文化を作り出しているのではないだろうか。今回、映画祭のスタッフから「どうして、アメリカもフランスもイギリスも映画祭に助成しているのに、日本は出してないのよ。」と尋ねられた。 制作費や渡航費を国から支給される彼らをただ羨ましいと眺めているだけでは、やはり駄目な様だ。
 でも、日本の場合は予算が年度単位で運用されているので、時間がかかったり、既に応募ができなかったりするんだ、と言ってみても、「それはあなた次第ね。」と努力すべきという視線で、さらに「あなたにとっても、そしてあなたに続く人に取っても大事な事よ。」と続けられたので、来年はなんとかせねば、また言われそうだ。

時代を越えて語る映像

 モントリオールから一旦撮影機材を取りに帰宅して、パリへ出かけた。取材で岡部あおみ氏とスタッドラー画廊へインタビューへ伺った時には、ため息のでるギャラリーの資料を拝見した。1955年に開業されてから開かれた展覧会ごとに、プロの写真家が撮ったオープニングやイベントの写真が山の様にファイルされていた。写真の中には既に亡くなられてしまった作家や数多くの美術界の重鎮の若き日の微笑みが、数多く残されていた。写真は自由に使って下さいと優しく微笑むジェントルマン、スタッドラー氏が印象的であった。

 その後、具体美術協会の記録写真の保管管理をされている芦屋市立美術博物館で、ドキュメンタリーに使う写真などを撮影させて戴いたが、素晴らしい写真が多かったので、予定していた時間の3倍くらいかかってしまった。現代でも記録は大事だと言われていてもなかなか難しいのに、40年前の具体では、驚くほどに数多くの写真が中盤サイズで撮られている。フィルムの方も最近になって野外展のフィルムが発見されたりしているが、60年代のピナコテカの会館イベントの記録では3台以上のの8ミリカメラが同時に回っていた事がわかり敬服した。
 その映像資産を今日の我々が見て、新たな発見や感動ができる事に唯々感謝する。

つづく

(1998.6 きしもとやすし/アート・ドキュメンター)

KYOTO ART TODAY

田中敦子 もうひとつの具体

森村泰昌 女優家の仕事

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