かくして、アートは消費される。
  ミュージアムグッズの中のアートドキュメンタリー          宮田一英
 

美しくカードの並ぶ
神戸ファッション美術館のミュージアムショップ
イメージの消費

 「ミュージアムグッズ」という、アートの新しい消費のカタチが一般的になったのは1970年代も後半のことである。それまでは、美術館のカタログを主に扱うブックストアで、書籍以外はせいぜいポストカードかポスターを並べていたのが、アートのアウラをまとった「雑貨店」へと変身していく。アメリカで成熟した20世紀の現代アートが、やはりアメリカで成熟した消費文化と結ばれて誕生した、実に楽しいアートの消費のカタチである。それからさかのぼること、約100年。やはり新しいアートの消費のカタチが生まれた。ロートレックやミュシャがコマーシャルのために制作したポスターというメディアである。ただこの場合、ミュージアムグッズに比べて消費の構造はやや複雑で、対価を払って直接に購うのではなく、広告費という一般には見えざる経費としての消費である。いいかえれば実体のない「イメージそのものを」消費していたのである。

 その背景には、当時のハイテクな印刷産業・リトグラフの成長があった。アートのイメージを消費するということ自体は宗教の歴史と同じくらい古い人間の営みでロートレックに始まったことではないが、近代的な印刷技術と結ぶことにより、消費スケールが飛躍的に拡大し、お参りに来る信者にありがたくも仏像や宗教画を拝ませてお布施をとっていた時代では問題にもならなかった「イメージの消費」という概念がクローズアップされたのである。以来、ポスターからビルボード、さらにグラビア印刷やオフセット印刷へのさらなるハイテク化による新聞や雑誌、出版などメディアの急速な発達にともなって、多くのアートは「イメージそのもの」を消費されてきた。アーティスト自身も作品発表の手段としてのメディアに憧れ、進んで消費されようとした。

「意味系」の大型商品

 では、映像はどうだったのか。再びミュージアムグッズの話に戻りたい。ミュージアムグッズを二大別すると、「情報系」と「グッズ(モノ)系」がある。情報系は、美術書やカタログ、ポスター、ポストカードなど主にイメージを消費するメディアである。その発展として、カレンダーやジグソーパズル、トランプなどがある。一方グッズ系は、ステーショナリー類、スカーフやリストウォッチなどのファッション雑貨や生活雑貨が主で、実用性・機能性にアートのアウラをまとった、一種のキャラクター商品である。その延長には、たとえば分厚いフェルトやビニール素材をポストカードに加工した、一見マルティプルのようなヴォイスグッズや、「クラインブルー」と名付けられ乳白色の薬瓶に詰められた群青の顔料のようにコンセプチュアルなものがある。大量生産・大衆消費という産業経済構造が版画やマルティプルの隆盛を促し、その帰結として限定性のないマルティプル、すなわちアートの量産品としてのミュージアムグッズがあるとも考えられなくもない。しかし、福田美蘭が作品をポケットティッシュに印刷したり、イチカワヒロコが作品であるショートフレーズのみを印刷したポストカードやラバースタンプを商品化するとき、最初から「メディアとしての雑貨」に注目していると思える。かつて、アーティストが広告媒体に憧れ積極的に取り込まれたように、そこにはメディアとしての雑貨に対するアーティストの明確な意志と計略が感じられる。「情報系」「グッズ系」に加えて、新たに「意味系」という分類を設けるのが適切かもしれない。

 そんなミュージアムショップの品揃えの中に、最近アートドキュメンタリーが加わった。ユーロスペースが配給する廉価で充実したラインナップの功績であることは言うまでもないが、では、アートドキュメンタリーはどの系に属するのか。当然、情報系?だろうか。たとえば、岸本康監督の森村泰昌「GO ON THE STAGE/1985-1996」は、フォトプリントされた作品を通して見る見られるという、イメージの消費者とアーティストとの森村本来の関係を越えて、映像によってコミュニケーションの新たなバイパスを施設するという計算があるように思われる。紙幣をアートにしてそれを使いながらアメリカ縦断を果たすフィリップ・ハース監督のJ.S.G.ボッグス「マネー・マン」が、アートドキュメンタリーといいながら実は映像の中で完結するパフォーマンスアートであるのとは違って、あくまでジャーナリスティックな形式をとりながら、そのメディアの中で新しい消費のカタチをアーティスト自身が提示している。とすれば、アートドキュメンタリーはミュージアムグッズにとって意味系の大型商品のデビューといえるのではないか。


「ビデオクリップ」でも、ま、イイか

私は、棟方志功を作品以前に人として知っていた。といっても、NHKの「新日本紀行」という映像を通じてのことで、彫刻刀で目をえぐりそうな近距離で大きな木版にへばりついていたあの姿が、それこそ子供心(1955年生まれ)に本当に強烈な印象を残した。でも作品よりは、牛乳瓶の底のようなメガネをかけた風体と、東北弁と、ねぶた祭りの山車の制作風景の方が面白かった。この番組が棟方志功というアーティストの記録を残したという点で、まぎれもないアートドキュメンタリーであると同時に、棟方志功にとって格好なる「ビデオクリップ」となった。

 二年ほど前に、ムンクの「叫び人形」がミュージアムグッズのヒット商品になった。大小のビニール風船やキーホルダーに、あの叫びのポーズが加工され、一般の雑貨店でも売れた。当然、ムンクは自分の作品がこんなカタチで消費されるとは思いもよらなかっただろう。しかし、意味系の商品はそうではない。そこに原則的にアーティストの意志、あるいは意志のシミュレーションが介在することによって成立する。
 アートドキュメンタリーも同じ範疇を出ないとするならば、アート作品としての映像との違いは、マネー・マンほどに曖昧になってくる。自作自演であるかないかなど、版画が自彫自刷りであるかないかほどにナンセンスな問いに思えてくる。本題を外れたが、多くのミュージシャンが制作する「ビデオクリップ」は、コマーシャルであり音楽商品としてのパッケージメディアであり、ドキュメンタリーでもある。テレビの音楽番組では、一種の映像ロゴのようにミュージシャンのアイデンティティや曲のコンセプトを反復して伝えるのに使われる。強引なマーケティングで売る(共通して嫌味がある)一部のアーティストは、すでに同じ手法を取り入れている。また、タレントアーティストも同じように造られている。表現の方法やトーンの違いを除けば、「意味系のミュージアムグッズ」としてのアートドキュメンタリーとの違いは、これまた曖昧に思えてくるのである。

(1998.6 みやたかずひで / ノマルエディション)

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