幻の映像/幻の本
                                        
岡部あおみ

 「どこにも売っていなくて、とうとう図書館に通って読みました。もう絶版になっているんですか?」こんな質問をあちらこちらでよく耳にするようになった。
 本を著す者にとって、一度出版されて公になった原稿は、巣立ちした鳥のようなもので、その行方を心配しても仕方がない。その気持ちはア−ティストと売れてしまった作品との関係にも似ている。ただ1点もののオリジナルではないから、たまに本屋で姿を見かけて安心したり、図書館の目録に載っていることを知って、ほっと胸をなでおろしたりする。そういえば、去年ぐらいから、『ア−ト・シ−ド/ポンピドゥ・センタ−美術映像ネットワ−ク』(1993年、リブロポ−ト)が店頭からぷっつり消えてしまったような感じがした。そしてその逆に、この消えた本を求める人達が増えていった。たまたま、まだ10冊ほど残っていた書庫から進呈したときに、ある人は、探し歩いた苦労の果てに、つい数日前に古本屋で見つけて買ったばかりだと言った。
アート・シード/
ポンピドゥーセンター美術映像ネットワーク

 『ア−ト・シ−ド』は、ア−ティストやア−トに関する映像(ア−ト・ドキュメンタリ−)の名作を、おもにポンピドゥ・センタ−のコレクションから選択して読み解き、日本では知られていないその歴史を概観しながら、フランスを中心に近年新たな動向となったこの分野の創造性を提起した本である。被写体となったア−ティストと映像作家のインタヴュ−、さらにポンピドゥ・センタ−の国立近代美術館で、長年、美術映像を作品として蒐集してきた女性キュレ−タ−の体験を交えながら、彼女が主催するビエンナ−レなど国際的な普及活動についても、審査員としてかかわってきた私自身の経験にそって語っている。
 この本が出版された当時、本書で取り上げた16本の映像(リチャ−ド・ロング、ギルバ−ト・アンド・ジョ−ジ、フランシス・ベ−コン、エドワ−ド・ルッシェ、クリスト、シモン・アンタイ、ダニエル・ビュレン、ピエ−ル・クロソウスキ−、クリスチャン・ボルタンスキ−、ジョルジュ・ル−ス、ロマン・オパルカ、ジャン=ミシェル・アルベロラ、マリオ・メルツ、アルヌルフ・ライナ−、ゲオルグ・バゼリッツ)を日本で見られる機会はじつに限られていた。それ以上に、各ア−ティストの作品を見られる機会さえも限られていたと言える。だが、これらのア−ティストにかかわる展覧会を催す機会をもった日本の美術館の学芸員の方々などが、映像の所在を問い合わせてくれて、イベント・講演会の一環として、映写会を積極的に催すようにになったことはとてもうれしい。

 今年の秋に東京都現代美術館で開催される『ポンピド−・コレクション』展(9/20-12/14)では、出品作家ア−ト・フィルムとビエンナ−レ傑作選として50本近い映像の上映が予定されている。私が取り上げた映像もだいぶ含まれていて、やっと映像の本体に遭遇できる状況になった。であれば、それに関する本が消えつつあるという現状の「時差」を、なんとかしなければならない。
 リブロポ−トで当時、編集を担当してくださった方が辞めていて、連絡するのを怠っていた。本当に絶版なのか、急に不安になり連絡すると、まだ
在庫は多少残っていることが確認できた。東京都現代美術館の上映会の機会に、欲しい方々の手に残せるようにと願っている。この本の出版を大喜びしてくれたポンピドゥ・センタ−の美術映像担当キュレ−タ−、ジゼル・ブルト−=スキラは、日本からの訪問客がある度にこの本を推奨してくれる。そのためにフランスから逆輸入の情報で、この本を探すはめになった人達もいる。本の普及は現在、こうした困難な状況になっているが、日本でア−ト・ドキュメンタリ−・ファンが増えてきていることは確かだ。たとえば、西嶋憲生氏のような生え抜きの映画評論家が、パリやモントリオ−ルまで足を延ばして、美術映像ビエンナ−レやフェスティヴァルに情熱を燃やし、鋭利な視線をそそぎ、熱のこもった論説を展開している。また清宮真理氏を中心として、渋谷のユ−ロスペ−スが、幅の広い最新のア−ト・ドキュメンタリ−映写会を開催し、ヴィデオ化して普及することまで手がけはじめた。こうした勇気ある実践は、この分野における日本での新たな1ペ−ジの開始として記憶されるべき出来事と言える。

「ボルタンスキーを探して」より
 実際に感動的な映像を見れば、だれでも興味が沸いてくる。私自身、美術映像への情熱を抱いたのも、ポンピドゥ・センタ−でたとえばマティス、デュシャン、マグリッド、ポロック、まだ20代のビュッフェなどが制作している現場の臨場感や迫真的な身体やまなざしを、映像を通して目撃したことの衝撃からはじまったにすぎない。20世紀の遺産ともいえるすぐれた美術映像を、少なくとも見られる機会を増やすことは、美術館の役割だろう。
 そして今後の課題は、ポンピドゥ・センタ−のビエンナ−レで、自作の映像を発表した愛知県美術館のように、映像プロダクションに美術館自身が実際に関与してゆくことだ。これには、展覧会のたんなる補助としての映像上映から、ア−トを記録しその記録を後世に残すという歴史的認識、その使命感への明らかな意識転換が必要となる。実際に私自身、1995年以降、日本で美術館の現場に関わるようになって、映像の上映を企画展に取り込むこと自体の難しさ(予算や著作権などのクリアの時間や翻訳など)を体験している。だが、状況に合わせたさまざまな方法は考案できるものだし、日本で活躍するこの分野の映像作家たちに相談しながら、新たなアイディアを生み出すことが大切だろう。そしてもっとも大事なことは、記録という行為の実践とその歴史的重要性を、どのぐらい多くの人達が実感できるかである。

 ア−ト・ドキュメンタリ−の制作は、現代美術以外に、音楽、演劇、ダンス、映画、サブカルチャ−を含む開かれた範囲にあり、ア−トの領域でもア−ティストをテ−マにするだけではなく、評論家、ディ−ラ−、コレクタ−などに焦点を当てたドラマやドキュメンタリ−にも興味深いものがたくさんある。そして忘れてならないことは、日本のコンテンポラリ−・ア−トが世界各国の関係者からますます関心をもって受け止められている事実だ。歴史として、芸術として、あなたは今、一体何を後世に残したいと願うのか。このフリ−ペ−パ−は、この一点を、読者の一人一人に問い掛け、それをみんなで模索してゆくフォ−ラム(広場)を開く、有効なメディアになるだろう。

1997.8 おかべあおみ(美術評論・キュレ−タ−)

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